昭和56年7月30日 朝のご理解 入力者松本正宏
御理解第七十九節 「商売をするなら、買い場、売り場というて、もとをしこむ所と売り先とを大事にせよ。人が口銭を十銭かけるものなら八銭かけよ。目先は二銭損のようでも、安うすれば、数が売れるから、やはりその方が得じゃ。体はちびるものでないから働くがよい。」
商売をするなら合楽理念を持ってする他にない。という事はどういう事かというと、商売による繁盛という事だけではなくて、繁盛の元、繁盛の徳を受けるということだと思う。例えば百姓は合楽理念を持ってする他にないというお百姓さんが合楽理念に基づいた農業をなさるとするなら、ね、作物が良く取れたとか、野菜が綺麗に取れたとか、高く売れたとかというだけではなくて、百姓をしながら徳を受ける手立てという事なんです。だからこれは百姓、商売だけの事でなく、全ての事がそうなんです。
今日私はここのところのご理解を頂いて一番感じましたのは、79節ということなんです。79節というのはもう一つ肥えたら八十ということ。いうならば皆が願っておられる、広がりに広がるという事は繁盛に繁盛するということですけれども、繁盛に繁盛するおかげを頂くということはその肝心要のその、まあ、扇子、いうなら扇ではないですけれども、広がりに広がって行くと言うことは肝心要のところがきっちり出来ておらなければ広がりに広がってもぐちゃっとこうなってしまいますよね。その肝心要のところが繁盛頂けれるおかげを頂く事は合楽理念を持ってする他に無いという事は合楽理念を持ってすればおかげが受けられるではなくて、合楽理念を持ってすれば徳が受けられるという事なんです。だから79節ということはお互いの信心がもう一つ肝心なところ本当なところになっていかなければならない。金光様のご信心をしておれば皆が親の代より子の代というように繁盛していくと言う風にということではない。ね。それこそ、子にも孫にも残るようなお徳を受けて初めて親の代より子の代、子の代より孫の代という風に繁盛になっていくのですから、お互いがここの79節までをね、やっぱり金光様の信心を頂いておれば、何とはなしに日々ご都合お繰り合わせを頂いて、まあ店の上なら、店の上に繁盛を頂いております。けれどもそれが徳になっていない。ということなんです。
昨日は敬親会でしたから、お年よりばっかりの方達の集まり。昨日は八十幾つという方達が五六人見えておられる、皆はくしゃくとしてそれぞれの信心やっぱ語られます。日々稽古をしておられる方達の話というのはやっぱり、いわゆる合楽理念に基づいた、おかげであり話なのですけれどももう、何十年あそこは信心しよってその、合楽理念、とにかく金光様の信心を頂いておりますというおばあさん達も何人かおられました。あるおばあさんの話なんです。この頃の嫁ごは非常に、頭が良くて、まあ裁けてはおるけれども、中々私共の若いときのようにはいかん。というてそれを黙っておっては出来ないと思うて、ここは一ついわなんという時には、金光様、親先生と、言いながら、私は嫁ごに言うて聞かせますという話がございました。中々話も上手ですけれども、もうとにかく、合楽理念に基づいてと人たちが聞いておるとこの人は何十年信心しよるけれども、合楽理念のことなんか全然分かっちゃいないと言う感じなんです。嫁御とのかかわり合いにおいて、ね、言うて聞かせにゃ出来ん。ね。それで私が言うておるのが本当か、あなたが言うておるのが本当か、里に帰ってお兄さんに聞いて見なさい。というて、言いますけれども、自分が悪かと思うとるけん、里にも帰りきりません。けれども、やっぱ時にはこうして言うて聞かせにゃできんという話であった。ね。だから、勿論言う時には親先生金光様で、もう一生懸命心の中で念じ乍言うと。これが七十九節は分かっておるけれども、という信心じゃなかろうかと思うですね。皆さんどうでしょうか。してみると、お互いの信心もです、その、七十九節のちょっと話を聞いておられたら皆さん、可笑しいように思われるでしょうけれども、この程度の人が沢山じゃなかろうかと思うですね。合楽にご縁を頂いておっても。商売は合楽理念を持ってするほかはない。もうたったその一つのところを本気で行じておるかいないかという事で、八十にもなりゃ徳にもある。ただ、おかげだけで終わるか、いうなら、商売をしてお徳いうなら、商売をしてお徳を受けるお百姓しながらお徳が受けられるという手立ては、七十九節のところまでは一生懸命、お参りもしておる御用もしておる、お話も頂いておる、大体金光教のことは全部知っておるというのが、もう七十九節までです。おかげを頂いて。けれども本気でです、いうなら教えを頂きぬくというところがない。だから七十九から八十という本当の徳にならないわけなんです。
私そのお婆さんの話を聞きながらね、本当、まあ悲しい事だなあ、八十にもなってから、まだ、嫁ごに言うて聞かせんならんというようないくら金光様親先生ち言うたっちゃもうそれこそ合楽で本気で信心の稽古をしておる人ならここんところが抜けて言葉に出して言うのじゃない、それこそ黙って収める、それこそ成り行きそのものを大切にさせて頂いて、それを頂きぬくということなんです。後の一つというのは。ね。商売でも金光様親先生で集金にも行きゃ仕入れもします。けれども肝心要の他所が一銭高いとか、仕入れ先のことを大切にせよ、売れ先を大切にせよと言われて、売れ先を大事にしなければ仕入れの大本の方も大事にしない、ただ、いくらでも儲かりさえすればいい、どうぞ今日も大繁盛のおかげを頂いて儲かりますようにという願いだけで繁盛しておるならば、それは七十九節まででおかげを頂いておるち言うことになるでしょう。私はもうとにかく合楽の信心を頂くということは徹するという事だ、抜けるということだと思うですね。そこを抜けきることだと思うですね。商売だけの事じゃない。家庭人間関係のことだけじゃない。ね。全ての点にそこを頂きぬくということがおかげは、頂いておる大体の事は知っておる合楽理念もマスターしたというてもです、マスターしただけではなくそれがいよいよ実験の上に表されなければはあこれが、商売による御神徳であろうか、商売の徳であろうかというような徳には触れられないと思うのです。私はその昨日のおばあさんの話を聞きながらこれは、もうちょっとおかしな、合楽の御信者さんにしては可笑しな話なんだけれども、これはもうほとんど合楽でおかげを頂いておる人たちの話と同じじゃなかろうかと思います。もし親先生又失敗いたしましたと、例えばこういうような生き方でいくならば、これはちっと儲けすぎようと思うけれども、ね、金光様親先生で、儲けさせてもらったというような商売をさせて頂くならば、ね、それでは、お徳は受けられんです。
私は合楽全部の信奉者に言える七十九節と言う風に感じたです。昨日の話を聞きながら。そしていうなら、もう一つのところのいうならばいよいよ成り行きを尊ぶ、とか、大切にするとか黙って収めるとか合楽の、いうなら信心の芯のように言われる合楽の芯そのものを知っておっても実行しない、それを抜けた頂き方にならなかったらお徳にはならんと。例え、孫がなら、どげん、まあ、横着なことを言うたりしたりしましても、ね、言わんと決めたら言わん。そして、目に余るようなものがあるならお取次を頂け、神様に御願いをするという生き方にもう徹しなければね、また、失敗しましたというような事であってはもうそれはいわば徳になるはずがない。七十九節で終わってしまう。お互い八十にならにゃいかんです。もうこれの肝心かなめのところを一つ頂いたらもうこれから、広がりに広がるばっかりなのです。ね。信心の徳とはそういうものだと私は思う。合楽理念を覚えただけ、マスターしただけではいけん。お互いそのおばさんの話を聞いておると、おかしな話をしなさるな、合楽の信者には似合わんなと言う感じがするけれども、よくこれを他のことに写して考えてみると、同じような意味のことを、それこそ金光様親先生というてはおっても、ね、ただ、言うて聞かせておるといったような結果に終わるような信心をお互いしておるのじゃなかろうか。これではおかげを頂いても肝心かなめのいうならば、商売をしながら、お徳を受けていく。百姓をしながら徳を受けていくという信心には繋がらないと思うですね。
どうぞ